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ウナ電

 
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電報:右側はウナ電

日本電信電話公社の電報配信紙

北海道の旧長沼町からの1962年(S37)のウナ電は、おそらく爺から見て、(母方)祖母の他界を知らせる電報だと思います。

晩年祖母は長沼のi家に居りました。爺も5歳のときかと思いますが現地で会ったのではないかと思います。

左の電報は、旧穂別町内からの電報です。爺から見て(母方)祖父は、かなり前に亡くなっていました。なので、「父」が誰をさすのか爺にはよくわかりません。

鉱山の試験合格証

父親の資格です。左側は「乙種坑内保安係員」です。1957年11月に合格取得しているようです。右側の講習修了により「普通保安技術」関係の受験資格が得られたのではないかと想像しますが、よくわかりません。

長野県東筑摩郡生坂村重で生活していて、鋼管鉱業差切炭鉱に父親が勤め、生活していました。爺が5歳ころに、鳥取県から祖父・豊福と祖母・ハツノが訪ねて来たのではないかと思います。

父親が東京に行ってなにか勉強したみたいな記憶がかすかに残っています。60年以上前のできごとでありました。

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乙種坑内保安係員

火薬の資格

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火薬の資格

父親が主に勤めていたのは「鉱山」でしたので火薬の資格は必須だったのでしょうね。

1954年の辞令

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鋼管鉱業差切鉱業所の事例
こちらの辞令「伍長二級」ということで職階を現わすなにかなんでしょうね…。
鉱業、採石業、砂利採取業などの業界では、職長、組長、伍長などという階層を形成していたようです。
父親35歳ころのことかと思います。

高校の成績表

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高校の成績表

根雨高校在学時の成績表です。1年生は4組、2年生は1組、3年生は3組でした。この通知表を見て、自分が何組だったか確認できるという、およそ半世紀前の出来事であります。

物理と英語で「2」評定

爺の高校5段階評定でした。
平均点の何%かを切ると単位落とす、とかあったような気がしますが、思い出せませぬ。

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上段3年生、下段2年生

2年生のとき、1学期英語リーディング、2学期物理でともに評定「2」でした。

北海道で中学入学、すぐに鳥取県へ転校したけど英語の教科書が異なる。その上、1年間は教科書なし、という今では考えられない状態で中学1年生を過ごしまして、英語は結構なトラウマでありました。以後、英語で楽な感じのトキはほとんどありませぬ。

高校3年生時、結構な欠席授業数になっているのを見て、爺一応赤面の至りです。
卒業・就職とか一番緊張していなければいけない3年生のときに英語14時間、数学8時間、世界史8時間、日本史8時間、古典6時間などという塩梅でサボッタ記録が残っております。

2年であれば、数学15時間、現国9時間などが目立つデス。

そういえば、3年生の秋、家庭謹慎という停学3日間というのも経験したです…ええ。公務員試験うけて米子から伯備線根雨に帰ったら、先生が待ち構えていて、知らされたです。

公務員試験の結果には直接の影響は結果的になかったのでしょうが、就職できなかったらどうしてたんでしょうね、今頃。あ、不純異性交遊とかいう類の停学ではありませんので悪しからず。「悪しからず」って、停学になってて「原因」「理由」などどうでもいいですよね…はい。

中学校卒業証書:1968年3月

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中学校卒業証書:1968年3月

昭和43年の春、中学校卒業したです、爺は。

今はもうありません、この校名。爺が通った学校、なかなか現状では残っていない…のであります。

爺が通った学校のうち、統廃合で以下の四つの学校の名前がもうありません。

まとめ:うちわ、ほとんどは1950年代の長野県東筑摩郡のモノ

「うちわ」記事のまとめです。

新見市井倉・1970年代

pagetaka.hatenablog.com

ちょっとおまけで、東京オリンピックワッペン(1964年)

pagetaka.hatenablog.com

うちわ:沖田商店@新見市

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うちわ:沖田商店@新見市

上のうちわは、沖田商店(新見市)のものです。鳥取県日南町の家にあったうちわのなかにありました。
爺は、鳥取県根雨高校(現・日野高校根雨校舎)に通っていました。県立高校でしたので当時は日南町に父母がいて、鳥取県民だったわけです。

しかし、爺が高校2年のころかに岡山県新見市井倉に父母は転居し、石灰鉱山で父親は仕事していたと思います。つまり、鳥取県民でなくなったわけでありまして、鳥取県立高校の生徒でありつづけることが問題あったのかなかったのか…。爺は根雨の街に下宿してまして表面上は何の変化もなかったんですけど、大人の事情はイロイロあったのではないかと思ったりします。

爺は、鳥取県内の高校を卒業し、広島市内へ就職しました。その前に父母は岡山市西大寺へ引越しし金属加工の工場へ勤めました。
就職時、赤穂線西大寺駅から混み合った急行列車、確か呉線経由だったかとおもいますけど、それで広島駅まで行ったかと思います。

ということで、このうちわはおそらく1970年代のものだろうと思います。すでに50年近く前のモノということになりそうです。