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うちわ:ときわや細尾商店@坂北仁熊分校前(長野県東筑摩郡旧坂北村)

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うちわ:ときわや細尾商店@坂北仁熊分校前(長野県東筑摩郡旧坂北村)

1959年以前の団扇です。「うちわ」記事に時々出てくる「仁熊分校」ですが、爺は通っておりません。

爺が住んでいたのは、生坂村重というところで、南北に長い生坂村を流れる「犀川」へ合流する「麻績川」沿いでした。

盲腸のように飛び出た重は坂北村との境近くです。麻績川沿いを「山清路」で犀川に合流したところで橋を渡り、現在の「生坂村山清路郷土資料館」が小学校であったかと思います。1年生の1学期で鳥取県へ転向したのでありました。

生坂村の小学校

1979年に統合した生坂小学校ができたようです。以前は3校あったようで、場所からすると、爺が入学したのは生坂北小学校であったかと思います。
その北小学校があったのが現在の生坂村山清路郷土資料館ではないかと思います。
60年位前のことでありました。

うちわ:亀屋呉服店@麻績(長野県東筑摩郡麻績村)

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うちわ:亀屋呉服店@麻績(長野県東筑摩郡麻績村

長野県東筑摩郡麻績村の亀屋呉服店のうちわです。1959年以前のものだと思います。

篠ノ井線麻績駅は改称され現在は聖高原駅です。
道路より鉄路の方が直線というか距離が短いということがあります。坂北駅に向け、母が線路を歩くのについて歩いたのを覚えています。
トンネルのなかで蒸気機関車が来ないかな~と心配だったのを覚えています。坂北駅に着いたからとて生坂村重までは相当距離があります。

聖高原から坂北は5km弱、坂北から生坂村重は6kmくらいはあるでしょうか…その距離を、当時幼かった爺は歩いたわけであります…何回も…。

うちわ:松本商店@坂北村長畑(長野県東筑摩郡旧坂北村)

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うちわ:松本商店@坂北村長畑(長野県東筑摩郡旧坂北村)

篠ノ井線坂北駅より南に位置する字名長畑ですが、爺に記憶はありません。生坂村重から出てくると坂北駅周辺は結構大きな街に見えた、という程度しか覚えてないのです…。

1959年以前の団扇だと思います。

うちわ:平林永貫堂@東筑坂北村(長野県東筑摩郡旧坂北村)

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うちわ:平林永貫堂@東筑坂北村(長野県東筑摩郡旧坂北村)
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うちわ:平林永貫堂@東筑坂北村(長野県東筑摩郡旧坂北村)
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うちわ:平林永貫堂@東筑坂北村(長野県東筑摩郡旧坂北村)

3番目のは「永貫堂平林商店」となっています。場所は「差切名峡口」と印刷されていて、爺がいたころ温泉(鉱泉)があったところではないかと思います。がけ崩れか何かあって、使えなくなったのではないかと記憶しています。
差切峡は麻績川にあります。父親が、素潜りでやす衝きするのに一回ついていったのを覚えています。

うちわ:内山商店@生坂村(長野県東筑摩郡生坂村)

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うちわ:内山商店@生坂村(長野県東筑摩郡生坂村

このうちわ、電話番号はブランクのままです。設置予定だけど団扇製造までにまにあわなかった、とか想像しますけどどうでしょう。

煙草、塩、日用品、雑貨、サケ、雑穀、薪炭などを販売していたようです。
爺は、1959年春まで長野県東筑摩郡生坂村におりましたので、それ以前の夏ごろに配られた、ということになるのかと…。