1959年以前の団扇です。「うちわ」記事に時々出てくる「仁熊分校」ですが、爺は通っておりません。
爺が住んでいたのは、生坂村重というところで、南北に長い生坂村を流れる「犀川」へ合流する「麻績川」沿いでした。
盲腸のように飛び出た重は坂北村との境近くです。麻績川沿いを「山清路」で犀川に合流したところで橋を渡り、現在の「生坂村山清路郷土資料館」が小学校であったかと思います。1年生の1学期で鳥取県へ転向したのでありました。
1959年以前の団扇です。「うちわ」記事に時々出てくる「仁熊分校」ですが、爺は通っておりません。
爺が住んでいたのは、生坂村重というところで、南北に長い生坂村を流れる「犀川」へ合流する「麻績川」沿いでした。
盲腸のように飛び出た重は坂北村との境近くです。麻績川沿いを「山清路」で犀川に合流したところで橋を渡り、現在の「生坂村山清路郷土資料館」が小学校であったかと思います。1年生の1学期で鳥取県へ転向したのでありました。
1959年以前のうちわです。米国、食料品、計量器、書籍、雑誌、文房具などを取り扱っておられたようです。
1959年以前のうちわです。米雑穀、小麦粉、肥料、飼料などのお店です。
3番目のは「永貫堂平林商店」となっています。場所は「差切名峡口」と印刷されていて、爺がいたころ温泉(鉱泉)があったところではないかと思います。がけ崩れか何かあって、使えなくなったのではないかと記憶しています。
差切峡は麻績川にあります。父親が、素潜りでやす衝きするのに一回ついていったのを覚えています。