1959年以前の団扇です。「うちわ」記事に時々出てくる「仁熊分校」ですが、爺は通っておりません。
爺が住んでいたのは、生坂村重というところで、南北に長い生坂村を流れる「犀川」へ合流する「麻績川」沿いでした。
盲腸のように飛び出た重は坂北村との境近くです。麻績川沿いを「山清路」で犀川に合流したところで橋を渡り、現在の「生坂村山清路郷土資料館」が小学校であったかと思います。1年生の1学期で鳥取県へ転向したのでありました。
1959年以前の団扇です。「うちわ」記事に時々出てくる「仁熊分校」ですが、爺は通っておりません。
爺が住んでいたのは、生坂村重というところで、南北に長い生坂村を流れる「犀川」へ合流する「麻績川」沿いでした。
盲腸のように飛び出た重は坂北村との境近くです。麻績川沿いを「山清路」で犀川に合流したところで橋を渡り、現在の「生坂村山清路郷土資料館」が小学校であったかと思います。1年生の1学期で鳥取県へ転向したのでありました。