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「尖閣は琉球」と1500年代中国史料に明記:長崎純心大准教授明らかに

msn産経ニュース(2012.7.17 08:38)によると、中国が尖閣列島を明代(1368年 - 1644年)から領土としていたとの主張が、中国明代の資料で「尖閣琉球」としていたことが、長崎純心大准教の研究で明らかになったとの旨を伝えています。

明の上奏文に「尖閣は琉球」と明記 中国主張の根拠崩れる
尖閣諸島(沖縄県石垣市)のひとつ、大正島について、中国・明から1561年に琉球王朝(沖縄)へ派遣された使節、郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に「琉球」と明記されていたことが、石井望・長崎純心大准教授(漢文学)の調査で分かった。中国は尖閣諸島を「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」と主張しているが、根拠が大きく崩れることになる。

尖閣の帰属に関しては1895(明治28)年に日本が正式に領有した後の1920(大正9)年、魚釣島に漂着した中国漁民を助けてもらったとして中華民国駐長崎領事が石垣の人々に贈った「感謝状」に「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていたことが明らかになっている。明代にも琉球側と記していた中国史料の存在が明らかになるのは初めて。

上奏文が収められていたのは、郭が書いた文書を集めた『石泉山房文集』。このうち、帰国後に琉球への航海中の模様を上奏した文のなかで「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していた。現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいる。

石井准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘している。>> 記事掲載WEBサイトの頁へ


明から琉球に派遣された使節が、中国皇帝に報告書を出し、琉球尖閣列島が付属しているということを記しているとのことです。
まあ、明代の論争がどうあれ、近代法治国家という体裁をとって以降、日本が19世紀末に領有を宣言し、異論が挟まれていなかった歴史的経過を見れば、論争以前の他国の主張と言えます。ただし、国と国のつきあいは大事です。道理を尽くして相手側に理解をもとめるという態度も大切です。