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神戸から北海道への約70年前の郵便、今は岡山へ

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1944年または1945年に神戸市兵庫区から、TAKAの母(B)(北海道勇払郡穂別村)にあてた郵便の封筒です。
封筒に書いてある発信人は、同所に住んでいた女性(A)の名前で、今回この封筒を私に送ってくれた方(E)の母親(A)です。この郵便の内容品、便箋はありません。

まず、日付です。なんとか読み取れるのは、「日」部分の「28」(23日かもしれない)だけです。あとは不明です。PCで画像処理してみましたが判断にいたりませんでした。

実際の発信人は、母の弟(AA=1945年戦死)で、軍人発信の郵便検閲を逃れるため投宿先の女主人の名前(A)を借りたものです。

この封筒は、先日、他所(E)から送られてきました。他所(E)へは、TAKAの伯父(D)が送ったようです。

流れを整理すると次のようになります。

手紙を書いた叔父(AA=TAKAの母の弟=TAKAの叔父)→投宿先の女主人(A)の封筒書きで投函→TAKAの母(B=AAの姉)あて→(封筒が実家に残った)→郵便宛先地の跡取りだったTAKAの伯父(D=AAとBの兄)が発見→(年月経過)→他所(E)へ送付→TAKAが先だってうけとる

こういった流れです。
郵便日付が昭和20年1月23日であれば、列車で横須賀から呉に向かう途中に神戸で下車し、関係の人に別れの挨拶をしたとき、同19年であれば1~3月に神戸で勤務したときの郵便封筒、ということになります。宛名は結婚後の姓の母になっています。父母の戸籍上の届けは昭和19年4月、母が産業報国会の辞令で結婚後の姓になっているのが昭和19年2月…。はたして、この封筒の日付、特に「年」が20年か19年か気になります。

TAKAの母が北海道で父と結婚し、鳥取県に移動してきたとき(詳細不詳)、この封筒は、実家(伯父D宅)に置いてきたのだろうと想像します。昭和46年にDとEの音信ができ(理由略)、その後、母(B)とも縁ができたものと思います。

終戦の4か月前に沖縄本島東方の太平洋で潜水艦とともに沈んだ叔父(AA)のことを母(B)はいつも気にかけていました。写真を飾りお茶も供えていました。封筒を送ってくださった方(E)がこの封筒とともに届けてくださった手紙には「せめて半年早く戦争が終わっていたら」というようなことがありました。

戦死した叔父(AA)のことを知る方(F)が、東京にもおられます。その方(F)の手紙には「神戸大空襲ですべて焼かれた」「20年1月には戦争が負けるのが(軍部は)わかっていたみたいだが」と、早期に戦争が終わっていたら、戦後の苦労や、親しかった人との淋しい別れもなかったのではとの思いが書いてありました。

来年は、戦後70年です。単に戦死した、犬死のようなことだった、と想ってはあまりにも命が残念です。平和の礎になって、戦死した、ということなのだろうと思います。母親は戦争を「壊すばかりでイケン」とひどく嫌っていました。働き手がいない中、奮闘しただろうし、肉親を戦争で失い、心に大きな傷が残ったのだろうとも思います。

ほぼ70年を経て、この封筒は発信人からTAKAのところに届きました。母の写真の前に置いてやりました。鳥取県に移動してからこの封筒を見てないと仮定すれば、69年ぶりくらいに見たのではないかと思います。

平和は大切ですね。