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昭和19年:産業報国会辞令

母親が、1944年2月11日、北海道の八田鉱業の富内産業報国会長から受けた辞令です。
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母親は、1922年1月生まれです。22歳のときの辞令ということになります。父と母が戸籍上の婚姻届をしたのが、1944年4月6日となっています。

日付が前後していますが…。ただし、爺は「10年目にできた」と聞いていますので、事実上の結婚生活開始は、1943年ころということではないかと思います。

母の父・喜平は、1877年(明治10年)9月、徳島県生まれ。1938年(昭和13年)3月に北海道穂別村(当時)で亡くなっています。上の姉は嫁ぎ、長男不在で二男は樺太憲兵、下の弟は、遅くとも1941年(昭和16年)には、青森県大湊の海軍にいたため、母親の面倒と開拓農家の働き手として、馬なども乗りこなして仕事をしていたようです。

馬を使って荷運びもしていたと聞いたことがあります。峠を越え、北方向へ運んでいたのではないかと思います。

爺が、父母から聞いているのは、鳥取県から働きに行っていた人の縁があって、父は、鳥取県多里村(当時)から北海道に行き、勇払郡穂別村(当時)の福山岩美原の八田鉱山(石炭)で働くようになったそうです。

そこで、父と母は、縁をとりもってくれる人がいて一緒になったのだろうと思います。婚姻届けの日付と報告会の辞令日の関係は、ちょっとおかしなことでもありますが、実際の結婚生活が先行することはままあることではなかったのかと…。

この下のリンクには、「八田鉱山」の案内が少しあります。ただし、父母が勤めていた炭鉱と同じ会社なのかどうかわかりません。また、紹介されているのは平取町振内などの鉱山ですので、場所は違うようです。

母の口癖「戦争は壊すばっかりでイケン」

母親は、弟を戦争で亡くしています。あと4か月ほど生きていれば、戦争が終わっていただろうにと、残念だったのだろうと思います。
そして、米子へ防空壕を掘りに出かけたことも話していました。
弟は、1944年4月18日、沖縄本島の東180400kmほどのところで米軍の攻撃を受け、潜水艦とともに還らぬ人となりました。
戦争になれば、人の命も奪い、汗水して作ったモノも破壊し、塗炭の苦しみが続くことを、母は体験したのだと思います。