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軍歴確認10:叔父はフィリピンのバレテ峠近く妙義山で戦死

昨日、鳥取県から届いた叔父の軍歴証明書を地図上で確認しようとネット徘徊しています。

所属は、第10師団の歩兵第63連隊

第63連隊は、島根県松江市に本部があった部隊のようです。第10師団は通称号「鉄」と呼ばれ、歩兵63連隊は、部隊番号が5447、林大佐が指揮官だったとの記録がありました。

1944年2月志願兵

叔父は、1925年1月生まれです。1944年2月に現役志願兵として歩兵第121連隊に最初所属し、同月中に歩兵第63連隊に転属、同月24日には韓国・釜山に上陸したとの記録があります。

すでに逼迫した戦況だったんでしょうね、訓練などの期間があったのかどうか…

1944年8月には、当時の満州国三江省(Wikipedia)を出発、朝鮮と満州の国境だった図們(Wikipedi)を通過、9月2日に釜山港を出て、9月17日に台湾・基隆港に上陸しています。

1944年9月21日に新竹州苗票に到着しています。これは現在の「苗票県」のことかと想像しています。

約半年間の記録が無く、1945年3月29日戦死

台湾からフィリピン・ルソン島への移動の記録は鳥取県には無いようです。
厚生省援護局が昭和36年12月1日付でまとめた、第63連隊部隊略歴では、次のようになっています。

  • 1944年12月2日 台湾・高雄出発
  • 1944年12月23日 フィリピン、サンフェルナンド上陸
  • (日付なし) ベレテ峠に於て戦闘
  • 1945年9月2日 終戦に伴う戦闘停止
  • 1945年10月から1947年12月 逐次復員

バレテ峠の激しい戦闘

ベレテ(バレテ)峠の戦闘は、日米に大きな戦死傷者を出した記録がネット上にたくさんありました。また、バレテ峠に戦没者慰霊碑が建てられていることも紹介がありました。

Amazon.co.jp: ルソン島・バレテ峠の真実 最も凄惨なフィリピン戦最後の戦場で起こったこと: 和田 昇: 本のなかには「妙義山」の名前が出ており、バレテ峠から見える範囲の山だということがわかりました。

「アジア問題を考える会」サイトに、第63連隊のことが次のように紹介されていました。

師団の各隊がフィリピンに安着出来ればよかったのですが、「乾瑞丸」乗組みの部隊が撃沈されて兵員、武器、弾薬を失う悲運に遭遇したことは、なんといっても残念このうえもないことですが、航行の途中に主力を離れて「江の島丸」がアパリに上陸したり、また歩兵第三十九連隊主力は師団長の指揮下を離れてバタアン半島に、歩兵第十連隊はマニラから遠く北方六百キロの地点に上陸し、残された師団唯一の歩兵六三連隊もマニラから二百七十キロの北サンフェルナンドに上陸といった状況で師団諸隊がちりぢりバラバラになっています。ルソン島防衛作戦は最初から困難さを思わせるものがあります。 師団諸隊がちりぢりバラバラになっています。ルソン島防衛作戦は最初から困難さを思わせるものがあります。
引用元:バレテ峠 - アジア問題を考える会 ボランティア カンボジア フィリピン 支援 慰霊 映画 ドキュメンタリー「バス―ラ」

バレテ峠は、ヌエバエシハ州ヌエバビスカヤ州の境にある峠だそうです。

当時日本軍がつけただろう地名「妙義山」が戦死地として軍歴証明にありました。現在地名は、よくわかりません…。