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委縮する(させられる)人物撮影の現状。肖像権とマナー、etc.

夏祭りの季節です。エネルギーを感じる「夏」の象徴「おまつり」、爺は大好きです。ただし、最近、写真を撮るのに気を遣います。嫌な雰囲気だなという…ひとつは、委縮するカメラマンと撮られる側の過剰反応、もう一つはカメラマンのマナー。

この際、踊る人を主に撮っている爺としては「肖像権」「表現の自由」と実際の撮影の関係を少し整理したいと思って、この記事を書くことにしました。

「肖像権」主張が大きくなり、スナップ撮影など人物を含むモノゴトを対象とするカメラマンはやや「表現の自由」を制限されている、というように、爺は感じています。

これでいいのかな、どうだったら、写される側も納得できるのだろう、などということを考えてみたいと思います。

法律の専門家ではありませんので、錯誤、無理解、誤解もあるかと思います。お気づきの点がありましたら、コメントなどお寄せいただければ幸いです。

まつりで踊る人

爺は、公共の場から見えるモノゴトは、写真に収めてよいのだろうと考えています。なので、公開のお祭りを撮るというのは、自由にできる、というのが基本の考えです。一方、屋内とか、屋外でも入場制限(有料、入場ゲートなど)がある場合は、その主催者に撮影を許可しない判断ができる可能性がある、と考えています。
曖昧な書き方になっているのには理由があります。大規模なお祭りで屋外・屋内ともに実施していた、本来屋外でのお祭りだったが雨天で屋内に、など状況が複雑なので一概に言い切れそうにない…ということです。例を、爺が経験した範囲で、神戸での過去記事からご紹介します。
pagetaka.hatenablog.com
リンク先の1枚目の写真は屋外、2枚目は屋内です。いずれも、「最前列」にカメオさんたちがいらっしゃる状態です。この場合だと、屋外・屋内によって撮影に対して特別な差はなかったことになります。

爺は、会場でそれらしき責任者がいれば尋ねるようにしています。先に撮っている人がいれば尋ねることもあります、地元ルールとかあるのか、などと。ただ、もともと撮るつもりで出かけてますので、路上での踊りなどは迷わずシャッタを切ります。公開の場で、人に見られることを前提に踊っている…ならば、撮るのにおよそ制限はないだろう…。

「およそ」と書いたのには理由があります。何年か前、岡山市の夏祭り「うらじゃ」でのことでした。道路上でパレード演舞中の小中学生の踊り連でしょうか、それをとある男性が並行して追うように撮っているのです。父兄でしょうか、やめてもらいたい、との声がしきりに聞こえてきました。難しい場面だな~と爺は感じました。父兄からは、ロリコン好きの変質者撮影者に見えたのかもしれません。真実はわからない…。主催者が特別に撮影を制限しているようでもない…。

横木安良夫のスナップ撮影術@アサヒカメラ2015年11月号

爺、普段カメラ雑誌を買うことありません。その例外が「肖像権」を特集で取り上げた「アサヒカメラ2015年11月号」です。現在も関係の所だけ抜き取って、いつでも見ることができるよう置いています。同特集では「横木安良夫のスナップ撮影術」が爺の思いに一番近かったです。

以下の引用は「横木安良夫のスナップ撮影術@アサヒカメラ2015年11月号」P74・75からの抜粋です。

(略)写真の発表については基本、パブリックスペースで撮影したスナップ写真は、被写体の顔が大きく写っていたとしても、純粋な芸術として写真集、写真展、カメラ雑誌への掲載であれば、なんら問題はないと思っている。(略)(引用者追記:何人もが写っている掲載写真を指して)被写体全員から承諾を得ることは難しく、カメラ雑誌のコンテストはグレーゾーンだ。カメラ雑誌のコンテストは、多くの先人が積み上げてきた写真文化として許していることだと思う。(略)もし撮られた人が写真を見て不快になり、クレームをつけたら真摯に受け止めて話し合う必要がある。(略)

このあと、裁判に訴えられた場合などにも触れたうえで、記事は次のように結んでいます。

(略)たとえ裁判で負け、損害賠償を受け入れたとしても、「表現の自由」として自分の姿勢が正しいと思う信念があれば、表現者として何も恐れることはない。再びスナップショットをすることだ。表現の自由とはそういうことだ。

この部分の小見出しは 〝「表現者」として信念はあるか〟 となっています。つまり、表現の自由を大切にするなら、信念をもって撮れということですね。何かに威圧されるように、何かの「空気」に押さえつけられるように、「忖度」したり変に「分別」することではないのだと…。また、ある意味、「自由」は自然と守られているものでもない、積極的に使うなり主張するなりして、まさに「自由」であるようすることが大切なのだと。

その場のルールを守る

ネット徘徊してましたら、撮影ルールについて書いたお祭りサイトのページがありました。引用します。

第16回がんこ祭フォトコンテスト 入賞作品発表!! | 浜松がんこ祭

(略)下記「観戦マナーのお願い」にご同意頂けないカメラマンさんは、がんこ祭での撮影を禁止させて頂きます。

同意事項 ■拍手・観戦マナーのお願い。
参加者(踊り子)さんより、「カメラマンさんは、最前列に並び写真を撮るばかりで、拍手もする人は少なく、非常に踊り難い、カメラマンさんの規制を考えて欲しい」との要望が上がっています。
また、前列で高い位置でカメラを構え、マナーの悪いカメラマンさんがいると一般観客からのクレームも受け付けております。


上記掲載の写真のような撮影の仕方はマナー違反です。
一部のカメラマンさんだと思われますが、がんこ祭は、「参加者の熱意に、観客が拍手で応える」お祭です。
この状態が続くと、会場での撮影禁止など規制をせねばいけなくなる可能性があります。
会場で撮影する際には、撮影のみでなく、演舞後には、必ず大きな拍手で踊り子を盛り上げ、熱意に応え称えるという最低限のマナーを厳守して下さるようお願いいたします。

〝がんこ祭は、「参加者の熱意に、観客が拍手で応える」お祭です。〟とのことで、これが会場参加または撮影ルールということの当否はともかく、主催者側のスタンスはこうであるという表明は、知っておくべきことです。閉空間であれば主催者のコントロールに従うというのはごく一般的なルールですしね。
この際、カメラマン側は「マナー」欠如によって、撮影機会を失う可能性があることを知る必要がありますね。「表現の自由」が自らのマナー欠落によって進行するという、嬉しくない状況を生み出してしまうのだと。ただし、カメラマンという性格上、現場の雰囲気から離れ、撮影に集中する、ということもよくあることです。一方、カメラマンが引き込まれ、最後は一緒になって手を叩いていた、撮影を忘れた、という光景も知っています。拍手しないのなら見るな・撮るな、とも受け取れるお祭りのスタンスは、表現を再検討しても良いのかな、と思いました。義理に大きな拍手をする、ということで双方OKなのか…とも思いますしね。

カメラマンと一般観客、そして主催者と演者などなどがどのように気持ちよく共存できるのか、試行錯誤は続くのでしょう。良否はともかくとして、ゾーン分離、踊り子側が選択、カメラマン登録制とか…制限につながりそうな内容ばかりだな…。爺は、撮影機会の減少につながるような制限はできるだけしないでほしいと願っています。

2011年にマナーのことでブログに記事を書いたことがあります。
d.hatena.ne.jp
d.hatena.ne.jp
現在も、その時の気持ちと同じような状態の爺です。

カメラマンは、禁じられたり、制限されたりしたその先の場所や時間に自分が撮りたい「絵」がある、という「妄想」「夢」をみたりもします。一瞬のことで見えない・見えにくいものを画像として見えるように写し停める、陰に隠れて見えないものを見えるようにとかも、カメラマンの「視点」です。

撮影も応援してほしい

踊り子の直前に陣取り、他の観客の迷惑も顧みないカメオさんが大勢いることは承知してます。だからといって、写真撮影の機会を減らしてほしくないと爺は切に思っています。
そこで気になるのが、祭り主催者などの「撮影」に対する姿勢です。

たまたまネット徘徊して見た一例ですが、「第51回さぬき高松まつり」の「28高松まつりフォトコン募集用紙M [更新済み]」がありました。ある意味一般的な表現ですけど、撮影に対する理解はどうなんだ~と爺は思うです。
関係部分だけ抜き出したのが下の画像です。
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フォトコンテスト応募は「被写体本人の承諾を得てください」としています。踊っている人を撮ったとして、写りこんだ全員の承諾を得ることが現実に可能なのか、主催者は考えているのだろうか、と思います。主催者に写真に写っている踊り子の連絡先を教えてくださいと言っても、オソラクNGでしょうしね…個人情報…などと言って。なかなか実現できない「承諾」ではあるが、明示することで「主催者責任」を果たしている…という建て付けなのかと…。

前段の「肖像権侵害等の責任は負いかねます。」は、撮影者、被写体双方に対してのことなのかな、などとも思いますが、記述してある場所のことを考えると撮影者に的を絞ったものでしょうね。

フォトコンの主催者は、肖像権侵害などがあっても一切知らない、ということかと。一方、「承諾」を個別承諾書式を用意したりその提出を義務付けたりしてないことは、現実に承諾をすべて撮ることが難しいことを理解しているからかもしれませんね…。

主催者には、撮影者への応援もしていただけたらありがたいです。
公開のイベントに参加して、例えば「踊る」ということは、それはわが身やその挙動を世間にさらすことであり、撮られるというのはある意味織り込み済みのこととして了解してもらうのが大切かと。これが、撮影者と被写体の共通土台となるような雰囲気・流れがないと、プライバシーや肖像権があるので同意なく撮られることはない、と思い込んだり、一方、カメラマンがシャッタ切るのをためらったり、というようなことが起こるのは、あまり好ましいとは思えません。公開の場で踊りを通して表現する自由があるなら、それを撮る自由も自然な流れで当然ではないのかと…。一方だけが保護され、他方は圧力を受け続ける、というのはバランスを欠くことになろうかと…。

少し度胸が必要かとも思いますが、カメラマンも、撮る、または撮っているというのをできるだけ隠すことなく堂々と写す、というのが大切ですね。くれぐれも「盗撮」といわれないよう…。言われた時にも、しっかり向き合うことがたいせつですね。
本題とは別事ですが「盗撮」といわれる撮影スタイルが、犯罪的なにおいをふくむ行為と想像される場面だけではなく、犯罪的な行動を暴き出すという側面もあるのだということは、記憶にとどめておいた方が良いのかと思います。なお、この部分は、当否・正邪を書いたのではないことを付け加えておきます。

公開と撮影の段差

撮影するとき、カメラをしっかり見せて(見てもらって)「撮らせてね」と会釈するとか、リーダーと思しき人に軽くお願いするとか、撮影の意思をお伝えするのが良かろうかと思っています。実際にはすべてで実行できるわけではありませんが…。

撮らせていただくことへのなんらかの(それらしき)同意は、その写真を何らかの形で使うということの意味も含んでいると爺は考えています。

それでも、写したものをネットにUP「公開」することとの間にいくらかの「段差」があるのだとも考えています。「段差」は「公開」しないとわからないということもあります。乗越えられる「段差」であればそのように、ていねいに応対したいとも思っています。

画像の削除を求められた、という経験があります…。高知よさこいで撮影した写真をネットにUPしました。その結果、とある踊り連から、削除してほしいとの連絡を受けました。
d.hatena.ne.jp
そのときのことはボケた脳みそに残る「記憶」程度のことですが、地方車の上から観客を見ると、カメラマンは拍手もしない、マナーが悪い、そんな人たちが撮った自分たちの写真を掲載されたくない、とのことだったかと。この時爺は写真を削除しました。嫌がるモノを無理やり掲載してもしょうがない、ということで判断しました。本人の人格などを損なう写り具合、などというものではないと思っていたので、掲載を続けるというのも考えましたが、まあいいか、と割り切った次第です。この時の判断が、良かったのかそうでなかったのか、いまだに心に残っています。

そういう心のまま、その後も、高知にも通い、他の踊りの写真も撮って、およそ5年が経過しています。この間、なんとか平穏に掲載を続けさせてもらっているのは、イロイロなご理解があればこそ、と思っています。爺は、人物、とりわけアップの状態でそのイキイキとした表情を撮りたいと念願しています。しかしながら、削除してほしい、という被写体の方もおられるかもしれない…とも。

被写体の人格を傷つけるかもしれない写真、誤解を与えそうな写真、というのは構図やピント、さらに撮影意図と合致していもUPしにくいですね。例えばキスの場面、実際には違っていて、写す角度・タイミングの結果、そう見えるように撮れた写真とか…。

夏にエネルギー溢れる踊り、その表情は、撮っても撮ってもその先があります。少し嫌なムードのある世間の雰囲気、ある意味それに抗してでも「撮りたい」というのが爺の正直な気持ちです。一方、弱気な爺も共存していて、撮りたくもない被写体を撮ることでオブラートにくるんだような撮り方になっているという、ゴマカシの自分があるのです。葛藤は続く。

暑い、熱いナツ…さて…。