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「朝日」掲載の県立図書館「公序良俗」に危惧を感じる

朝日新聞18日付に「図書館で水着女性の撮影会、使用許可を取り消し 岡山」見出しの記事が掲載されギョッとしました。なお、爺はネット上で読みました。

朝日記事の見出しはどうか

同記事見出しを見ると、一般に想像される「図書館」内で水着撮影会が行われるところだった、かのように思えます。「見出し」の作為を感じます。見出しを付けるだろう整理部記者の力量を疑ってしまいかねない…。そして、見出しは外形上事実なので、なおヤヤコシイ。

爺は、この記事になったスタジオで撮影経験があり、事情がある程度わかります。建物は確かに「図書館」だけど、書架や閲覧室とはまったく離れていて、本の閲覧など一般入館者が通ることもありません。「撮影スタジオ」以外の要素はほとんどありません。PCが何台も設置してある隣室との間にガラス面(防音)がありカーテンを開いていると見える、ということくらいです(カーテンはスタジオ側から操作し、普段は閉まっている)。
「会場は2階にあるメディア工房。照明機材などを備えたスタジオ(略)」(同記事)としており、本文を読めばある程度の配慮にはなっている、というのが精いっぱいで、「図書館で水着女性の撮影会」という見出しで読者に先行したであろうステレオタイプな印象をぬぐえるかどうか疑わしい。「見出し」とはなんぞや…。

岡山県の「公序良俗」とはどういうことか…

21日午前、図書館の担当に電話して事情を尋ねました。
爺の立場は、(1)営利目的使用を認めないのは理解できる、(2)「公序良俗」はあまりにも大きな概念でカメラマンや撮影自体を委縮させる可能性がある、(3)できるだけ制限をかけてほしくない、というもの。

担当者が言うのには、(1)県の教育関係の施設である、(2)ヌードはむずかしい、(3)ケースバイケースで考えていく、などとのことでした。

表現の自由を大切にしてほしい。撮影は自由に行いたい

そもそも、「営利」が理由でNGとなった今回の「水着撮影会」ですが、県の立場について「公序良俗に反する利用内容だとわかっていれば断れる。」と同記事は伝えています。爺は、ここに危惧を感じます。公民館など身近な公共施設利用でも「公序良俗」は条件に入っています。いわゆる精神条項的なもので、それが主となる何かと言うのは、あまりにもキケンではないのかと。「公序良俗」の大網で制限のフリーハンドを確保する県の立ち位置というのはどうなんだろうかと思います。制限・制約は、具体的な理由で最小限に、と願わずにはおれません。

試しに、著名なヌード撮影カメラマンが無料で講師を務める研究会が申し込みをしたらどうなるか、と尋ねたら、ケースバイケースとしながらも「むずかしいだろうかと…」との主旨の返事でした。そうなると、切り刻んで尋ねたくなります。どうだったらOKなのかと。水着の面積なのか、ポーズなのか、照明の当て具合なのか、カメラマンの位置なのか…。それっておかしいでしょ!

電話応答で教えていただいた県の立場「一般のスタジオと違い教育機関なので、…ヌードはむずかしい」は、「ヌード」「水着」撮影の自由もなければ、芸術性も認められないのか…?!、などという反応を誘発しかねません。図書館にある(だろう)本の中には、類似のものは(きっと)あるだろうと想像します。そういう現実との齟齬を説明するのは容易とは思えません。説明が複雑で、こまごましたものというのは、ほころびも出やすく、信頼性も担保しにくいのだということを理解してほしいのです。
そして、撮影は基本的に自由なんだということをシッカリ確認してほしいのです。その上で、モデルの人権が侵されるとか、営利目的だったとかの、具体的な要件によって必要最低限の使用上の合理的制約であってほしいのです。

表現の自由」が損なわれることがないよう願いたいのです。これが損なわれると、思想・信条や日常の行動もずいぶんと窮屈なものになるように思います。

県立図書館に撮影スタジオがあるってスゴイこと

メディア工房」という観点が岡山県図書館にあることを爺は高く評価しています。その施設として「撮影スタジオ(録音も)」があることを、さらに高く評価しています。
室内撮影を練習したり、その機材をそろえたり、ましてその場所を安定的に確保する、というのは一般にはかなり難しいことです。
爺は、人物撮影にかかわることを我流ではありますが、このスタジオを使わせていただくことでずいぶん勉強させてもらいました。ライトの色温度はもちろん、背景処理、多灯撮影、そしてモデルの手配などなど、項目にすればかなりのことになるのかと…。機材充実をお願いすると、それなりに応えていただいている、という印象もあります。

撮影スタジオが公共機関ということで安価に利用できるあるありがたさを、つまらぬ「営利」目的でとばっちりを受けたくありません。得体のしれない「公序良俗」で委縮させられたくもありません。

「自由」とかいうのは、じっとしていれば守られるというほど、安穏なものではないのだと最近思います。普通にカメラのシャタを切ることが、なにか目に見えないイヤなものに制約されるというようなことは、ご勘弁願いたい。

県の関係者の立ち位置というのは、けっこうむずかしいものがあるのだろうと思います。憲法に保障された「表現の自由」を担保する立場にあるのが公務員。一方、肖像権、プライバシー権などがネット上の情報との関係で無関心ではおれない状況です。「知らない」で済まされない厳しい現実があります。
撮影スタジオは、撮影の場所で、公開は別段のコト、というのがイロイロあっても、隘路に陥らないためにも大切なのでしょう。とはいえ、撮影と公開、特にネット上への公開、が関係・隣接している現実もあり悩ましい限りです。そういった苦悩が行政の対応を複雑にしていることもあるのかと想像します。

今回の「朝日」記事が結果的なミスリードにならないためにも、「公序良俗」が理由となるのはどうなんだという疑問があることに気づいてほしいのです。「制限」「制約」は合理的で必要最低限なほうが「表現の自由」などのためには良いのだろうと…。