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叔父の写真(1944年頃)

第一期高等科潜航術電機訓練生第五十二分隊第一班

写真の裏には、「第一期高等科潜航術電機訓練生第五十二分隊第一班」の25名(名前・階級)が写っている旨書いてあります。
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叔父の海軍軍歴を見ると、1944年5月に同練習生と記録があります。同年11月に一階級昇進していますので、それ以前の撮影だろうと思います。

多くの方が戦没者となっているのではないかと想像するとともに、ご存命であれば90代半ば以上ではないかと想像します。

裏書には、姓名ともありますが、姓のみここに掲載させていただきます。
大崎、小川、佐伯、冨宿、高尾、浅田、中本、扇田、高橋、田内、岡本、高橋、矢島、寺田、澄田、今任、山本、富永、福富、奥、後藤、北、小倉、林川(村川?)、岩佐

1944年5月神戸、それ以降の写真

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二人で写っている写真、右側が叔父です。1944年5月に神戸で親友と写っています。伊12号の艤装作中である旨の記載があります。
叔父とその友人は、神戸で同じ下宿先だったと思います。下宿先の娘さんと母は、戦後しばらく不明の時期をはさんで晩年手紙のやり取りや訪問などをしていました。
爺が結婚したときはお祝いにミシンをいただいたと記憶しています。

小さいほうの写真には「二等機関兵曹」とあります。大きいほうの写真とは軍服も異なっています。二等機関兵曹に昇級したのは1944年11月、と記録にあります。

叔父は、翌年春に伊44号に乗船、戦没しています。

戦前の母の写真

写真の整理を少しずつ進めています。

1937年(昭和12年)ころからの写真だと思います。

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写真説明

  • 上左:裏に「昭和12年」とあります。15歳ころの母だと思います
  • 上中:裏書はありません
  • 上右:「18」と裏書があります。おそらく「かぞえどし」で書いてあるのかと思いますので、1940年(昭和15年)・17歳頃でしょうか
  • 下左:裏に「大湊ニテ紀念寫眞 昭和17年5月25日」とあります。母が20歳のとき、青森県下北半島にある大湊(海軍基地)で撮ったのだろうと思います。いっしょに写っているのは、母の弟(爺の叔父)です。叔父はこの後、1942年5月土浦に異動しています。大湊、土浦にいたときは航空隊だったのですが適性が得られず、土浦異動1か月後に、横須賀で潜水艦乗務になりました。
  • 下右:裏書がありません。表に「苫小牧 冨士スタジオ」の刻印があります。1941年8月に大湊で入営して以降、苫小牧に立ち寄ることは無かったのではと想像します。なので、1940年頃でしょうか。立っている男性は爺不知。

1940年2月、樺太敷香での写真

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樺太シスカ(現ロシア領・ポロナイスク)で撮った写真です。母と母の弟(爺の叔父)、手前はおそらくシスカ憲兵をしていた母の兄(爺の伯父)の長女ではないかと思います。

ひとつ上の右下の写真撮影を1940年頃と想像したのは、この上の写真撮影に日付があり、母と叔父の感じが似ているからです。

爺の幼いころの写真@生坂村重

1959年春までに撮ったと思われる写真@永野家に日下村重
1959年春までに撮ったと思われる写真@長野県生坂村

父親が鋼管鉱業差切炭鉱で働いていたころに撮った写真です。長野県生坂村重に間借りして住んでいました。どの写真にも爺が写っています。
①撮ったのは1958年かその前年ではないかと思います。半そで姿ということは夏のころでしょうから、1959年の春には日南町に引っ越していたので…。重の集落には南北に細い道があって、そこで撮ったのではないかと思います。一段上のお宅にはヤギが飼われていて、爺はその乳をもらいに行くのを母親に言いつけられていたのかと…。
②③祖父、父、祖母、母そして幼いころの爺です。5歳のときに鳥取県多里村から祖父母が生坂村に来たと記憶していますので、1958年頃の写真のはずです。
④母の友達・信子さんと子ども二人、母と4歳のころの爺です。撮影は1957年8月となっています。

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父親の同級生in1980

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上の2枚の写真は、父親と同級生の記念写真だと思います。
父親は1919年生まれです。写真の周辺に残る年を見ると「80」となっていますので、おそらく1980年に60歳を過ぎたあたりで集まった記念に撮ったのではと想像します。還暦記念ということかもしれません。

爺はすでにその年齢を越えています…。

下の写真背景は、多里小学校ではないかと思います。上の写真背景は、湯河の入口近くに暖簾を出していたお店ではないかと思います。

生きていればもう100歳に届こうかという面々です。

祖父母@米子空港(恐らく…)

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大きい方は、伯耆富士(大山)を背景に、自衛隊輸送航空団の文字が入ったプロペラ機、その前に、祖父母が写っています。

当時、米子空港と言ってたかどうか不明ですけど…。1960年ころに「航空団」となっているようです。


似たような写真で9人が写ったのが別に一枚あります。そこにも祖父母の顔がありますが、他の7名の方はお名前がわかりません。自分の記憶のなかにも見覚えがあるお顔がおひとりおられるかな~という程度です。

航空機を背景に記念写真、何の旅行だったのでしょう。

下の正方形の小さい写真には、お名前のわかる方がおひとりおられます。たしか「たくみさん」と父親が言ってたのではないかと…。日南町内で撮ったのかそれ以外か不明です。

日吉津のおじさんと祖父

インスタント写真の画像です。
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赤いのを羽織っているのが祖父です。隣りは「日吉津のおじさん」と呼んでいた、祖父の弟です。
祖父は、1888年12月に広島県小奴可村で生まれ、縁あって鳥取県多里村へ働きに来て、祖母と結婚しています。祖父は長男で、三男が「日吉津のおじさん」です。

祖父の母親・タミは1913年に没しており、夫・勝太郎とは戸籍上の夫婦関係はなかったようです。祖父が勝太郎に子どもとして認知されたのは1918年であることが戸籍の記録からわかっています。

日吉津のおじさんは、日吉津村内へ養子にいっていたので姓が違っています。
祖父は、出生時「崎」姓。祖母と結婚した後、1937年「山根」姓、1940年に現在の姓となっています。
爺の父親をはじめとした兄弟6人は「崎」姓で生まれました。父親は、「山根」姓だったことをしっかり覚えていました。現在の姓になったのは、1940年に祖父母が入婿・入嫁(両養子/とり婿とり嫁)で跡継ぎのいなかった家に入ったからだと。祖父母と父親など兄弟はともに三つの姓の時期を過ごしたことになります(ただし、兄弟の一人は1939年没なので現在の姓にはなっていない)。

祖父は、1975年6月没しています。

父親が写っているのかな?

古い写真です。誰が写っているのか今となっては不明です。
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似たような台紙に貼られた写真がほかにもありましたので、おそらく父親が写っている写真だろうと思います。父親は長男でした。なので、父親が写っているとしたら左側の年長の子どもだと思います。

祖父母と、おそらく赤ちゃん当時の父親が写真に収まっている(撮影:出雲横田町 野尻写真館)

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立っているのが祖父、座っているのが祖母、赤ちゃんが父親だろうと思います。祖父、祖母については間違いないと思います。赤ちゃんが父親であるとの確証はありませんが、まあ、本人が本人が写っている写真をもっていた、と考えれば、恐らくそういうことだろうと思います。

出雲横田町の野尻写真館(野尻寫眞館)のクレジットがあります。多里からは上萩山を経由していったのではないかと想像しますが、どうでしょう…。
赤ちゃんが父親だとすると、写した時期は1920年頃か少し前ではないかと思います。

ということは、およそ100年前の写真、ということになります。