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芳野村と西大寺町の境界

29日、西大寺を歩きました。
西大寺の「区切り」として今でも使われる「西大寺」「芳野」「中野」などの境界を少し調べてみようという試みであります。

1940年(昭和15年)12月1日 - 芳野村が西大寺町に編入。(1町19村)」ということで、自治体としての「芳野村」は1940年に消滅しています。

一方、「芳野へ通った」という人がご近所に結構おられるのです。「学校沿革の概要」を見たら次のように説明がありました。

   18年4月    西大寺第二国民学校を合わせ西大寺国民学校と改称し芳野分校を設置
(略)
   33年4月     芳野分校を廃し芳野校舎を設置
   34年9月    芳野校舎を廃し本校に合併

昭和34年に岡山市西大寺小学校芳野校舎が廃止になった、というのが締めくくりみたいです。
その、学区割りが旧町村の境だったのだろうとTAKAは想像しています。

両備バス西大寺バスセンターの南あたりから下の図のように、緑の線を境におよそ東と西で異なる小学校に通った。しかし、本校の方が近かった人も学区割りの結果遠い芳野校舎に通った、ということがあったのだろうと思います。
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5月1日、境界調べで歩きました

上の図の緑の線が境界になります。おもにこの南に伸びる線を調べてみようということで、歴史のありそうなおうちでお尋ねしました。水路が大きな境であるように思います。なかには、友達が西大寺だったので同じ学校に通いたかったから住所を隣に移して西大寺小学校に通ったという話を聞いたことがある、との例も見つかりました。

しかし、キッチリ現地で「この水路が境になる」「コノ道が区切り」と指させる人はほとんどいなくなっているのではないかと想像します。一番記憶に残るのが西大寺小学校本校に通ったか西大寺小学校芳野分校に通ったか、というようなことが実体験としてハッキリしているように思いました。昭和34年に7歳くらいとなると現在60代前半くらいでしょうか、そう思えばもう少し調べる期間はありそうです。