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生坂村重で、母、祖父と

爺、生まれてから小学校一年生初めのころまで、長野県東筑摩郡生坂村重というところにおりました。
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上の写真は、5歳のとき、祖父母が鳥取県から初めて訪ねてきたときの写真ではないかと思います。父親が撮った写真だと思います。左の写真は、左から母、爺、祖父。また、こたつの上に乗っている板は、「丸い飯台・ちゃぶ台 - pagetaka」に掲載した写真と同じものです。
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同地には、鋼管鉱業が炭鉱を営んでいて、父親はそこで働いていました。
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昭和35年から池田内閣「高度成長政策」「所得倍増」などが言われます。その、1、2年ほど前が写真撮影時期だと思います。石炭から石油へとエネルギー政策転換が田舎の炭鉱にも影響を与え、昭和34年春、父親はこの炭鉱を離職し、日南町湯河にあった若松鉱山へ就職しました。

鋼管鉱業差切鉱山は、長野県東筑摩郡生坂村日向・坂北村大字差切で亜炭を掘り出し、草津(群馬鉄山)に焼成用石炭を供給していたようです。山腹の生坂村側に坑口があって、麻績川の下を掘り進み坂北村中込方面に採炭トンネルがのびていたのではないかと思います。その坑内で落盤・出水などが発生したのではないかとおぼろげに記憶にあります。昭和33年頃ではないでしょうか。

関連リンク

blog.goo.ne.jp
(5/12追記)上記リンクを読むと、生坂村教育委員会が平成4年に「村指定文化財 重の炭鉱坑口」という看板をだしているのがわかります。そこには、1951年から1958年まで鋼管鉱業が採掘していたことが記載されています。

祖父の写真(父方)@多里村消防組

祖父の写真(父方)
祖父の写真(父方)

父方の祖父の写真です。若いころですね~。祖父は、明治21年(1888)生まれです。何歳の時に撮った写真かわかりませんが、20代とすると1910年くらいから後、ということになりそうです。
チャンとした台紙に張られていて「K.HATATA 日野 畑田謹寫 阿毘縁」とクレジットが振ってあります。阿毘縁に写真館があった、というのは初めて知りました。

多里、阿毘縁のいずれも現在の日野郡日南町内の大字名となっている「旧村」です。

祖父母の写真コピー(母方)

母親の写真帳の中にコピーがいくつかありました。写真をコピーしたものでした。

祖父母の写真コピー(母方)
祖父母の写真コピー(母方)

元になる写真がどこにあるのかわかりません。名前は母親の筆跡ではないと思います。写した時期はずいぶん異なっています。喜平は1938年3月、あとは1962年2月に没しています。

祖父・喜平に関する画像を見たのは初めてです。

多里村閉村記念写真(1959年3月31日)

1959年3月末に撮影されたと思しきこの写真が爺の家にあったのがなぜかよくわかりませぬ。この時期、爺は長野県にいたです。

多里村閉村記念写真(1959年3月31日)
多里村閉村記念写真(1959年3月31日)

60年近く前の写真です。このとき20歳だった人も80歳になっている計算です。関連の情報をお持ちの方、よろしかったらお知らせください。

多里村は閉村し鳥取県日野郡日南町の一部になりました。爺は、同年長野県から引っ越しして来たです。父親の故郷です。

丸い飯台・ちゃぶ台

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丸いちゃぶ台・飯台

畳をあげる

父母が建てた日南町の家の畳をあげました。建ててから50年近く経過した家の畳を引き起こし、裏を見たらボロボロでした。床板にもオレンジ色に近いシミがいくらか広がっていました。
ということで、すぐ畳を捨てるというわけにもいかないので、壁に立てかけたのでありました。床が板張り状態になり、殺風景なもので、昔の丸いちゃぶ台とタンスを置いて写真を撮りました。

タンスに立てかけてある板は、炬燵の上に置いて使っていたのだろうと思います。一辺50cmくらいはあるでしょうか…少し反っていますが一応一枚板です。

タンスとちゃぶ台は長野にいたころにすでにあったのでは?

タンスは、爺が生まれた長野にいたころすでにあったのではないかと、昔の写真を見た記憶…おぼろげですが。ということは60年は経っている。
丸いちゃぶ台も恐らくそうではないかと思うのですが、はっきりしません。日南町の鉱山社宅で食事のときに使っていた記憶(≒怪しい)があるので、50年以上は経っているのかと…おそらく。

古い人形などを処分

日南町の家には子どもたちの学生時代のアレコレ、父母の品物などがわりと残っているもので、昨日は人形などを処分しました。軽四にゴミとなったモノを載せて帰るので大した量を処分できるわけでもないのですが、少しずつ家の中が山積み倉庫から、床が少し見える、畳をあげることもできた、ということになってきつつあります。

いずれ、不要家電、古い家具などは日南町で処分し、スッキリしたいと妄想中…

イ44号に叔父が乗っていた、とメール到来

本日、メールが着信しました。叔父が潜水艦イ44号に乗っていた、とのことでした。

母の弟(=叔父)がイ44号に同じ潜水艦に乗って戦死しています。

以前に、寝屋川の方からメールをいただいています。
pagetaka.hatenablog.com

爺のブログ見て連絡をいただいた方は、今回で3人目でしょうか。
[第一期高等科潜航術電][伊44号][潜水艦]

2011年に掲載していますので、もう7年が来ようとしています。叔父の戦死から73年が経過したことになります。
d.hatena.ne.jp

合格通知書、採用通知書

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格通知書

1970年11月、郵便で受け取った「合格通知書」です。ちょっと、脳みそに残っていることがあります、この試験と結果については…。

  • 一次試験は米子であった。中学同級のM君のアパートに一泊させてもらい、当日朝は車で会場に送ってもらった
  • 二次試験は松江であった
  • 一次試験時か二次試験時か今となっては判然としないですが、伯備線根雨駅に帰り着いたら、i先生が待っていて、爺が停学になったことを伝えられた
  • 「合格通知書」を新見市井倉で待っていたが、予定した日に届かなかったので、不合格と思った
  • 郵便事情により一日遅れたのではないかと思うのですが、とりあえず合格
  • 合格したのは、「郵政(一般)鳥取」だったのですが、就職は広島中央郵便局ということでありました
  • それも、交代制勤務のかなりキツイ通常郵便課でありました
  • 採用時に、集配を数年やらないか、と要請されたが、同期で応じたのはいなかった

などなどを思い出しました。

採用通知書

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採用通知書:広島中央郵便局

初任局は広島中央郵便局でした。1971年3月16日付で採用されました。
一日早ければ3月分の給料などでもうれしい結果なのでありましたが、どこかで線引きする必要から、爺は残念なことだったかと思います。

採用事情が郵便局側でひっ迫してたんでしょうね、いきなり本採用でした。残っているほかの資料を見たら、宿舎探しでも郵便局のお世話になっているのでありました。瀬野川に家族官舎があってそこを新人3人でシェアしてました、その後、牛田早稲田に独身寮ができ移動したように思います。